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平安(へいあん、? - 1409年)は、中国の明代の将軍。幼名は保児。 == 生涯 == (現在の安徽省滁州市)の出身。父の平定は、常遇春の配下として大都攻略戦に従軍した際に戦死した。洪武帝は息子の平安を引き取って養子とし、父の職を継がせて密雲指揮使・右軍都督僉事に任命した。 1399年から建文帝とその叔父である燕王の朱棣による内乱(靖難の変)が起こると、平安は李景隆率いる官軍の中核を成す将軍として活躍する。白溝河を渡河しようとする燕軍を迎え撃つとき、朱棣は最初彼を侮っていたが思いのほか苦戦させられ、進軍を阻まれた。翌日の再戦において朱棣は手痛い敗戦を喫するが、このとき官軍で最も活躍したのが平安だった。燕軍の房寬と陳亨を破り、彼の槍は朱棣の体を数度捉えるほどだったが、伏兵を恐れた李景隆の命で敵中に深入りすることなく退却した。一方、3度も馬を乗り換え、剣も折れた朱棣は、次男の高煦に救われてかろうじて窮地を脱したのである。 しかし、次第に燕軍の前に劣勢に立たされるようになり、単家橋では盛庸と共同して燕軍にあたり善戦するが、突如起こった強風が燕軍に味方する結果となり敗れる。1402年、宿州で燕軍と戦い、燕軍の勇将である王真を討ったが、戦況を変えるには至らず、霊璧の戦いで燕軍に敗れて他の将とともに捕縛された。捕縛された際、諸将は平安捕縛の報告に安堵するとともに処刑を進言したが、朱棣は彼の武勇を惜しんで助命し、即位後に北平都指揮使に任じた。1409年3月、章奏の中に平安の名前を見つけた永楽帝は「平保児はまだいたのか」と側の人間に言った。この永楽帝の発言を聞いた平安は自殺した〔『明史』では永楽帝の発言の意図、平安の自殺の理由のいずれにも言及されていない。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平安 (明)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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